「現世を過ぐべきようは、念佛の申されん方によりて過ぐべし」法然上人

子どもが6ヶ月になってから、一緒に朝の勤行を始めた。

理由は2つある。

1つは、カッコいいパパの姿を見てもらいたかったから。もう1つは、子どもの生活リズムを整えたかったからだ。

こうやって書くと、前者は見栄っ張りで、後者は教育熱心な父親みたいに聞こえる。でも実際は、そのどちらも少しずつ当たっている。

僕は子どもの頃、祖父の後ろをよくついて歩いていた。祖父がお経を読めば隣に座り、木魚を叩けばじっと眺める。保育園の頃には簡単な日常勤行を覚えていて、意味も分からないまま唱えていた。

その経験が学校の勉強にどれだけ役立ったのかは分からない。でも、暗記することへの抵抗は少なかった気がするし、何より朝の時間に静かに座るという習慣は、後になって振り返ると案外大きかった。

だから愛息にも同じ道を歩んでほしいわけではないけれど、親が毎朝手を合わせる姿を見ることには、それなりの意味があるような気がしている。

もっとも、こんなことを言っている僕自身は、つい最近まで朝の勤行なんてほとんどしていなかった。

お坊さんなのに。

この「お坊さんなのに」という言葉は便利だ。自分で自分を責めることができるし、先回りして言い訳もできる。

先輩から、「それでお布施を貰うなんて詐欺だろ!」と叱られたこともある。

そのときは本当にその通りだと思った。耳が痛いなんて生易しいものじゃなくて、胸の奥の柔らかい部分を指で押されたような感覚だった。

でも、それで勤行を始めたかというと、始めなかった。

人は正論だけでは動かない。

少なくとも僕はそうだった。

反省している自分と、面倒くさがっている自分がいて、結局いつも後者が勝つ。そんな勝負を何年も繰り返していた。

だから今の僕が毎朝愛息と一緒に勤行をしているという事実を、昔の僕が知ったら少し驚くだろう。

愛息はまだお経の意味なんて分からない。

持ち運び式のチャイルドシートの上で身体をよじったり、鐘の音に急に笑ったりする。その横で僕はお経を読む。

厳粛というより、かなり賑やかだ。

でも、その賑やかさがあるから続いている。

1人だった頃は面倒だったことが、誰かと一緒だと当たり前になる。

それは育児でもそうだし、念佛でもそうなのかもしれない。

法然上人は、「現世を過ぐべきようは、念佛の申されん方によりて過ぐべし」という言葉を残している。

若い頃の僕は、お坊さんになるなら結婚しない方が格好いいと思っていた。

煩悩から離れている方が立派に見えたからだ。

だから結婚も遅かった。

ところが実際に結婚してみると、思い描いていた理想と現実はずいぶん違った。

独身だった頃の僕は、朝の勤行をしない。

結婚して子どもが生まれた今の僕は、毎日念仏を称えている。

順番が少しおかしい。

煩悩に近づけば念佛から遠ざかると思っていたのに、実際には逆だった。

結婚して、家族ができて、自分の思い通りにならないことが増えて、その結果として南無阿弥陀佛を称えるようになった。

理屈だけで考えていた頃には見えなかったこと。

愛息の体温。

木魚の音。

眠そうな朝の光。

そして南無阿弥陀佛。

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